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起こりうる問題・ 学校に依存しない教育

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起こりうる問題

これまで改造論で子供たちや学校がどのように変わっていくか述べてきた。現行の教育に対する問題を解消する策を説明してきたが、これによって必ずしも良い結果ばかりが現れるはずもなく、マイナス面にも目を向けなければならない。  

まず子供たちに起こりうる問題について考える。知識の蓄積を重視した教育から知識の活用を重視した教育へと移行させた場合、生徒やそれを評価する教師にとってつかみどころのない学習になる可能性がある。自らが進んで勉強していくのだから生徒の学習に対する達成感は満たされる。しかし学力向上したという目に見える結果が現れにくいため、実感に乏しく、継続して学習していけるだけの気力が喪失してしまう危険がある。  

基礎学力の充実と自立した学習はお互いに助け合いながら教育が進んでいくが、二兎を追うものは一兎をも得ず、となりかねない。特に新要領のままでは、学習内容3割削減を授業総時間の1割程度の総合的な学習であるので、知識が十分につかず考える力もさほど身に付かないといった中途半端な結果となってしまいかねない。  

世間は見た目のわかりにくい考える力よりも、試験で簡単にわかる学力にどうしても目がいってしまう。数字としてはっきりと結果が出るからだ。考える力を養う教育は長い期間見守っていかなければ評価されにくい性質があるので、知識の蓄積を軸として考える力の育成を併用しながらやったほうが、長期にわたって望む教育方針が維持できるだろう。 

また小学校から高校までの12年間でくさび型の教育を実施するとなると、小学校と中学校、中学校と高校の間で連携をしなければ、学校間で温度差が発生し生徒が混乱してしまうおそれがある。学校独自のカリキュラムになると教育の格差が生まれる。公教育でどれほど学校格差が認められるのかが心配だ。  

自立した学習を実施すると、考える力で能力の差が出てくる。自主学習が年々増えると考える力のない生徒が授業について行けず、落ちこぼれてしまう。具体的にどうフォローしていくか難しい。  

次に教師への問題について考える。まず仕事量の増加である。従来の授業、総合的な学習といった様々な仕事をして行かなければならない。準備などに追われ、肉体的・精神的な負担が増える。教師の増員だけでは解決しづらい状態に陥っている。自分で何もかもやる教師主導から生徒主導に変え、教師の仕事を少しでも減らす努力をする。そのための方法や技術の指導を教師にしなければならない。  

教師たちにとってこの教育改革は大きな変化である。社会の流れによっても将来、学校教育のあり方が変わっていく可能性もある。そのために必要な能力の変化に教師自身がうまく対応していけるか疑問である。  

次に学校について考える。総合的な学習で、生徒が調べる作業を行うための設備不足が挙げられる。本で調べるにしても、学校の図書館にある本の量はとても充実しているとはいえないし、公共の図書館等を利用するのに、学校との距離が問題である。学校から遠い場所にあると、時間が無駄になり頻繁に通うことができない。距離の格差を縮めてくれるインターネットの利用にしても、有益なサイトを教師や生徒がどう見極めていくか難しい。学校によって設備の格差が現れると、それを穴埋めするための生徒への負担が発生し、地域間で平等な教育が維持できなくなる可能性がある。  

最後に、家庭について考える。一番の問題は子供の教育、躾にどう関与していくかである。適切な躾が行われているか外から見えにくく、家庭の中が聖域と化している。間違っているからといって、実際に親へ躾の教育を強制するわけにもいかないだろう。  

幼稚園・保育所や小学校との間で家庭への接点を多くしていくしかない。問題を起こしている子供の親と対話することで、教育や生活の改善をさせていくしかないのである。  

子供、教師、学校、家庭に影響してくる改造論をいかに問題点を少なくしていくかが課題だといえる。努力や工夫で補える点もあるが、根本を解決するには至らないようだ。

学校に依存しない教育

 

今まで、学校教育をどのようにして変えていけばよいか考えてきた。こうしてみると現在の教育は、欠点ばかりといえる。  

教育とは何か、という根本的な問題から考えてきて子供たちが学ぶ場というのが、学校だけではないことがわかっただろう。たしかに同学年の子供たちが集まり、教育のための設備・場所が整っていて、教師という指導者がいるという学校は、教育する場という点では条件が十分揃っている。ただ教育の方法が誤っていただけなのである。  

これまで現行の学校制度を生かした教育について述べてきた。子供たちを最大限引き出す教育だと考えている。別に学校という場ではなくても、その教育が実現できることがわかるだろう。全国に存在するフリースクールでも同じことだ。学ぶ場所と指導者(支援者)と子供たちが集まれば、どこでも学びの場となるのである。  

学校に依存しない教育といっても学校に通わないということではない。学校の教育だけを何も言わずに従うなということだ。  

長時間学校という場に拘束される。子供の生活は学校中心に動いていることは確かだ。だがすべてを学校に丸投げしてはいけない。よい意味で学校との距離をとるのだ。子供をよりよい大人に成長させるために何が必要か、その中で学校が果たす役割が何か考える。学校は万能ではない。肉体的依存はうけるが、精神的な依存はするべきではないのだ。  

学校は学力をつけ、集団生活をする場である。子供にとって前者の役割が薄いと考えるのであれば、学習塾や自主学習によって補う。後者の場合は、学校外でボーイスカウトや地域のような場で補う。今の学校では不十分の場合、学校をかえるか、やめてほかの場、フリースクールやチャータースクール(コミュニティ・スクール)のような場に通わせる勇気も必要になってくる。  

住んでいる周りに適当な場がないときには、自分たちで用意するしかない。集団生活をするため、仲間が集まらなければならない。非常に難しい行動なので、新しく場を設ける労力を既存の教育施設で行う場合とのメリット・デメリットをしっかりと考えるべきだ。 

新しい学びの場でどのように教育していくか説明する。  

まず教育の支援者についてである。子供たちに学校の勉強や、自立させるための手助けをする人のことだ。親が適任であるが、一日中目を配らせることは生活もあり現実問題として無理だ。そこで教育に関心があるボランティアや定年後のお年寄りに手伝ってもらう手もある。地域を密着し、他世代と接することは、どちらにとってもプラスになる。  

理想をいえば、子供が自分たちで学んで行けるシステムを作ることである。幅広い年齢の子がそろっていれば、年少の子供の世話を年長がするといった対応が十分可能である。 

勉強については、早くから「自立した学習」を身に付けさせる必要がある。もちろん、社会的にも自立していかなければならない。自分のことは自分でする癖をつけていくことが大事である。  

自習の時間の箇所で説明したように、わかる人がわからない人に教えるようにすれば、教育は実現できる。学校の先生と生徒の関係と同じように、教える人と教えられる人を子供たち同志でやるのである。教えるのは得意な人がやればよく、必ずしもすべてを同じ人がやる必要がない。これが一番学校とは異なる点で、先生と生徒の役割をこの都度交代することによって、みんなが成長していくのである。  

子供だけでも教育自体はできるが、安全上の問題があるので、大人の管理下にあるのが絶対条件である。  

学校とは、勉強だけをする場ではなく、集団行動を身に付ける場でもある。一人でも勉強はできるが、集団行動はできない。たくさんの子供が集まるということは、社会に出るまでの準備段階の教育として、最重要課題といっても過言ではないのだ。  

最後にある程度の「生徒」が集まれる場所を確保する必要がある。一番手っ取り早いのが、家である。ほかにも図書館のような公共施設、適当ではないがファミレスや喫茶店などもある。学習する内容に応じて最適な場所を選んでいけばよいだろう。子供たちに自主性や協調性があれば、学校ではなくても十分に学習可能なのだ。

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雨宮勇徒の研究室[教育・南海トラフ地震対策・原子力]