雨宮勇徒の研究室論文の部屋

教育改造論

メルマガ 雨宮のよもやま噺で『学力低下をどうするか』を連載中。

リンク集[教育]

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はじめに/家庭での教育/ ・躾について/ ・教育について/食事の教育/ ・砂糖をとりすぎない/ ・和食中心、米主食の食事/義務教育/ ・教育の内容/ ・基礎学力の充実/ ・自立した学習/ ・個性を伸ばす教育/ ・総合的な学習/ ・地域教育/ ・教育のアウトライン/ ・授業の効率化/ ・自習の時間/ ・個別・集団学習の時間/ ・体験学習の時間/ ・学年をまたぐ教育/ ・学校・教師の役割/ ・起こりうる問題/大学教育/ ・大学入試について/ ・大学について/ ・大学・大学院教育/学校に依存しない教育/さいごに

リンク集【教育】

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雨宮勇徒の研究室[教育・東海地震対策・原子力]>    

はじめに  

前章では教育改革や現在の教育についての問題を指摘し、各論について解決案を提示してきた。これからは家庭や学校、大学、地域などの全般の問題を踏まえた総論として考えていかなければならない。これからの教育の方針をしっかりと定めて現行の教育を一新する気持ちで改革しないと、問題をただ解決するだけの将来のビジョンのない教育となってしまう。特に学校教育については、これから社会で必要となる能力、子供たちに何を教えるべきかなどを考えていかなければならない。  

最初に、家庭教育について考える。子供にとって家庭での教育は、学校で行う以上に重要であることを知っておかなければならない。ここでいう教育とは、早期に英会話などの習い事を推進することではなく、最適な躾と食事を行うことである。  

核家族が多く親からの育児や躾の方法が伝わりにくく、子育ての時間が生活の都合で多く取れない状況である。巷ではテレビや本など育児に関する情報があふれているにもかかわらず、自分の子育てに自信を持てない親が多いのだ。  

もう一つ重要な点に食事の問題が挙げられる。食事が多様化して便利になった半面、健康を損なう弊害も出てきている。これは大人だけの問題ではなく、子供にまで病気の魔の手が侵略してきているのだ。また、食事の内容で子どもの人格形成が左右されることも知る必要がある。  

次に、学校教育について考える。まず学校で何を学ぶべきか、一から見直さなければならない。  

一方的な受け身教育の弊害が浮き彫りになっている今、個人を尊重したきめ細やかな教育を行う必要がある。子供の自発性を生かす自立した教育を目指し、個性に応じた教育を実施する。限られた時間内で必要な教育を進めていかなければならないので、教育自体を能率的なものにしていく。子供たちには社会に出るまでに必要な知識を身に付けさせ、自分の考えをもった行動力のある人材を生み出す教育を実施する。  

教育体制が変化しなくてもできる学習改革について述べる。情報社会へ突入した現在では、学校に依存しなくても十分な教育を子供たちに与えることができる。学校自体を改革させなくてもできる教育方法についても考える。    

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家庭での教育  

小学校に入学するまでの6年間、子供はほとんど家庭で過ごすことになる。幼稚園や保育所にいっている時間以外は家庭と一緒に生活するのだ。  

最近では、授業が成立しない学級崩壊が起き、問題となっている。子供に、忍耐力や適応能力が乏しいためである。また、無気力で自分一人では何にもできない、自発性のない子供も増えてきている。これらの問題は親の子育ての仕方に一因があると考えられる。これからは親に適切な子育ての方法を指導していかなければならない時代になっているのだ。   

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・躾について  

まず、子供の発育過程について説明する。子育ての中でどのように自発性や社会性が養われていくのか知る必要がある。  

乳児期で一番大切なことはしっかりとした母子関係を形成することである。このことは対人関係の発達で一番の基礎の部分である。母親が子供のために愛情を注ぎ、子供は母親に要求するといった、双方向の関係を築くことで母子の信頼関係が生まれる。子育ての第一歩であると同時に、最重要課題といえる。  

母子関係だけではなく父子関係も重要である。身体的な遊びは父親を好み、母親とは違った親和行動の相手として選ぶ傾向があるようだ。  

6〜8か月から目がよく見えるようになり、人見知りするようになる。これは愛情を与えられた母親とのきずなや人間関係が発達して、見慣れた人と知らない人との区別が分かってきたためだ。人見知りをしない赤ちゃんは、母親との愛情関係が希薄だといえる。その時は子供と一緒にいる時間を多く取り、母子関係をしっかりしたものにする。母親からの愛情は、少なすぎると人間関係がうまく築けず、多すぎると自立心が育たなくなる。子供の要求に最適に答えられるような目を養わなければならない。  

1〜2歳半になると甘えが強くなる。子供の不安を解消し、親とのきずなを深くする。子供が求めてきたときに身体接触を積極的にするべきである。親の都合でやるのは子供にとって甘やかしになるので、やってはいけないことだ。  

1歳ぐらいになると、歩行が可能になる。手が自由に使えるようになるので、子供はいたずらを始める。これは探索行動といって、子供の自発性の発達に欠かせない。1〜3歳の間に初めての知的活動を活発に行い、好奇心や探究心を十分につける必要がある。  

社会生活で必要な躾をこの段階から徐々に始める。生活で必要な行動やルールを決め、それをできるだけ自分で身に付けさせるようにする。そのためには母子の信頼関係と自発性が重要となってくる。  

躾をするうえで大事なのは、自発性を育てることと、欲望を抑えることを学ばせることである。何でも禁止してしまうと自発性のない無気力な子供になってしまうし、すべて子供のいうことを聞いていると、我慢のできない子供になってしまう。基本的な生活習慣の自立については、頭ごなしに叱らずに親が支援する気持ちで接する。御菓子やおもちゃなどの物質的な欲望については、すぐに与えたりせずに親がしっかりとしたルールを作り、それに従って行うべきである。  

2〜4歳の間に第一反抗期が現われる。今までの子供の行動は母親との関係に依存していたが、ここで初めて自分の頭で行動を考えるようになる。様々な体験の中から基準を作り、それに準じた行動をとるようになったためだ。子供の自発性が発達している現われで、この時期は子供のやりたいようにさせることが重要である。反抗期がないのは甘やかされて育てられたため、不満がなく自分で考える必要がなかったからである。  

この時期は反抗期と甘えの気持ちが共存している状態である。両方とも発育には欠かせない行動なので、親のほうがうまく対応する必要がある。  

4〜6歳は友人形成期といい、ほかの子供たちとの交流を求め出す時期である。この時期以前では、子供同士が仲良く遊ぶ力がついていない。おもちゃの取り合いやけんかをしても子供に責任はないので怒らないことだ。幼稚園や保育所に通わせることで、友達を作る機会を与えることが重要である。本格的な社会生活の始まりと言えるので、この時までにある程度の規律を身に付けさせておかなければならない。  

7〜9歳ごろの子どもはギャングエイジといって、好きなもの同士でグループを作り独自の遊びを始める。親からしつけられたものとは別の価値観を子供たちが創造するので、自発性の現われだといえる。  

家庭での教育で重要なことは早期教育をすることではない。自分で考え行動する自発性、ルールを守り身の回りのことができる社会性、欲望を抑えて苦労ができる忍耐力を身に付けさせることである。今、学校で引き起こしている問題とこれらの能力の欠乏が関係していることは明らかである。小学校に入学するまでに、子供に適切な躾が行われていれば問題は起きないのだ。   

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・教育について  

子供の将来を考えたり、学校のテストの出来を心配したり、親としては当然の想いであろう。だが、進路は子供自身が決めることで親がとやかく口出しすることではない。親が何でも決めてしまうと、躾の部分でも述べたように自発性がなくなってしまう。あくまで支援者の立場を守るべきである。言うとすれば、金銭的な問題ぐらいだ。  

このことは進路だけではなく、成績にもいえることである。テストの点数や学校の成績でむやみに叱らないほうがよい。  

点数は試験を受けた時点の学力の一部がはかられた結果に過ぎない。将来に身に付いているかいないか反映されることはない。テストではかられる学力というのは、知識の量がほとんどである。学力は知識の量だけではなく、考える力や問題解決能力など多岐にわたっている。子供の将来にとって大事なのはテストでよい点数を取ることだけではないのだ。 

テストの結果は、点数ではなく内容を見る必要がある。どこで間違えたのかよく調べて、次のテストで間違えないように努力する。継続は力なりという言葉があるように、勉強は積重ねである。ただよい成績を取れと言うのではなく、わかる喜びや達成観を分かち合うことのほうが重要だ。  

子供のころから自分で勉強する力が身に付けば、自然と知識というものは頭に入ってくる。人から言われなければ勉強しない子供にしてしまうのは、一番の罪である。子供を自立させることが、親にとって唯一の教育なのだ。  

学校5日制により、土曜が休みになる。学校外での時間、特に家庭での過ごし方が問題になってくる。  

休みの日くらい子供には自由にさせたい。学力低下が心配だからといって勉強漬けにするのではなくおおいに遊ばせることだ。遊びから子供たちが学ぶこともあるのだ。  

子供たちが熱中するTVゲームが問題になることがある。家に帰ったらずっとやっている子供もいるだろう。よく一日何時間と親が決めることがある。一定のラインを引くことはよいことだ。だがルールは子供と一緒に決めるほうがよい。ゲームをやっている本人が納得してする時間を管理させなければならない。親がゲームをしない場合、理不尽なルールを決めかねないからだ。一日一時間と決めても、ゲームの性質上それ以上やらないと意味のない場合がある。例えば、次のセーブ(ゲームの記憶)まで一時間以上進まなくてはいけない、途中でセーブできないゲームでクリアまで一時間以上かかるものなどだ。子供がまず規律を決め、それに従わないときに初めて親が口を出すのだ。  

遊びは子供たちにとって考える力を養うものだ。TVゲームしかり、カードゲームしかり、外遊びしかりだ。TVゲームは本人は自分が考えているつもりでも作者の思い通りに動かされているだけだという意見がある。私はそうは思わない。慣れてくると惰性でやっている場合もあるが、作られたルールの中で自分で考えてプレイしているのだ。今では情報も多く、攻略本を見ながらゲームしている人が増えている。これではあまり考えないでプレイしている。最初は何も観ずに始め、途中で行き詰まったり一通りクリアした後、攻略本を買い隅々までゲームするというやり方が効果的だ。ゲームは長時間熱中するものだが、やりすぎだと叱らず、その集中力をかってやるぐらいの気持ちが欲しい。その集中力を学習に向けるようにするのが大人の仕事ではないか。    

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食事の教育  

ファーストフード店やコンビニの増加でいつでも気軽に食事がとれるようになった。その反面、食事の欧米化により高脂肪になり、とる食物繊維も減ってきている。また、御菓子やジュースをたくさん口にし、三食のバランスが崩れてきている。そのため、これまで大人の病気だった生活習慣病が大人にまで低年齢化している。飽食の時代になり、食事による健康被害が出ているのだ。  

若い女性を中心に単品ダイエットなどの無理な食事をし、体を壊している。必要なビタミンやミネラルが不足する、現代型の栄養失調になる人が増えている。カロリーは十分すぎるほどとれているが、それを利用するための栄養素が足りていないのだ。ビタミン剤や栄養補助食品が多く売られているが、これだけですべてのビタミンやミネラルがとれるわけではない。食事の内容を改善するしかないのである。  

子供のころの味覚は大人になっても引き継がれる。いわゆる「おふくろの味」である。そのため食事の内容に気をつけて適切な食生活を維持して行けるように、子供のうちから食事に関する教育をすべきである。  

最近の子供は、精神的に不安定になっている。ジュースや甘い御菓子のとりすぎで、低血糖状態になり、脳の栄養不足になっているせいではないか。またカルシウム不足に陥って、不安定になっている可能性もある。  

現代病は食事によって引き起こされていることが多い。子供のころから適切な食生活をさせなければならない。   

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・砂糖をとりすぎない  

ジュースや御菓子などで砂糖を摂取する機会が多くなった。砂糖は吸収が速いため、血糖値が急激に上昇する。頻繁にこのような状態が長く続くとすい臓がおかしくなり、大量にインシュリンが分泌され通常よりも血糖値が低くなる低血糖症になる場合がある。この低血糖症やカルシウム不足、または朝食を抜くことによる低血糖状態で引き起こされる精神の不安定が、今学校で問題となっている「キレる子供」の一因となっていると考えられる。  

小さな子供は3回の食事で十分なカロリーがとれない。そのため間食で補っていかなければならないので、おやつの質に注意したいものである。  

できるだけ砂糖を多く使った御菓子を間食として食べさせないようにしたい。甘いものはなるべく食後にとるようにする。それは胃の中に食べ物が残っているため砂糖の吸収が遅くなるし、食べる量も少なくなるからだ。もちろん食べすぎはよくない。  

また、間食は3度の食事が普通に食べられる程度に押さえるべきである。おやつでジュースや御菓子をついつい食べてしまいがちだ。ジュースには砂糖が多く入っている。特に炭酸飲料は飲み心地もよく甘さを感じにくいので、たくさん飲まないように注意しなければならない。間食でおなかがいっぱいになってしまうと、食事がちゃんと食べられなくなる。おやつはあくまで補助的なものであって、主食にしてはいけない。   

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・和食中心、米主食の食事  

食事の欧米化、コンビニやファーストフード店の増加で、食のバリエーションが格段に多くなっている。長い間伝わっている日本の風土にあった食文化が短期間で崩れてきた。日本が失いつつある食事は、世界では生活習慣病の予防に効果的だと考えられる。子供のころから家庭で日本食を大事にし、おふくろの味として次の世代に伝えていかなければならない。  

食事は低脂肪・多食物繊維を心がける。主食を米にし、おかずは和食中心として中華や洋食とバランスよくとりたい。  

和食は低脂肪で多繊維だが、塩分が多い。中華は高脂肪で多繊維。洋食は高脂肪で少繊維だが塩分が少ない。それぞれの料理に特色を知ったうえで、献立を考えるようにする。 

脂肪分が多い食事の場合、食物繊維を多くとるようにする。食物繊維が脂肪の吸収を押さえてくれるからだ。塩辛い食事の場合、カリウムが多い食品をとるようにし、塩分(ナトリウム)を体内からの排出を促すようにする。  

これから具体的におかずの工夫を考えていく。  

子供が好きな料理にハンバーグがある。ハンバーグは案外、脂肪分が多い。挽き肉に脂肪が多い部位がよく使われているためだ。食物繊維は中に入れるタマネギくらいで、ほとんど入っていないのも問題である。  

挽き肉はできるだけ脂肪分の少ない部位にする。塊の肉を包丁等でミンチ状にしてもよい。挽き肉だけではなく固く絞った豆腐や魚のミンチを加えると、必然と脂肪分が少なくなる。肉より魚の脂肪のほうがよい。青魚に多く含まれるEPAやDHAはコレステロール値を低下させる効果がある。  

どうしても食物繊維が少ないので、補う必要がある。ハンバーグのたねの中にタマネギのほかにおからを加えると、食物繊維が多くとれる。またソースにキノコや大根おろしを入れた和風のものにすると、なお一層繊維をとることができる。  

カレーもまた子供が好きなメニューだ。嫌いな野菜を食べさせるのに最適な料理である。具を大きく切るのではなく、目に見えないほどに細かくする。  

まず香味野菜を細かく刻む。タマネギやセロリは薄切り、人参やパセリはできるだけ細かくする。タマネギとセロリを焦がさないように飴色になるまで炒める。油はバターよりオリーブオイルを使ったほうがよい。人参は途中、パセリは最後のほうに加える。パセリと一緒にセロリの葉などの香菜やにんにく、生姜を加えてもよい。こうして野菜をよく炒めると、水分が飛び旨味や甘みとなる。まとめて作って冷凍しておくと便利である。  

あとは各家庭の手順で作ったカレーに、炒めた香味野菜を加える。水を加えるときに一緒に入れよう。  

次に餃子を取り上げる。子供からお年寄りまで幅広く人気があり、野菜も多く入っているのでバランスのよい料理だ。  

まず豚挽き肉を粘りが出るまでよくねる。肉に味付けをして、塩揉みして水気をよく切った白菜やキャベツなどの野菜を加えて混ぜる。野菜は肉と同量ぐらいがよい。  

あとは皮に包んで焼く。フライパンに油をひき、餃子を並べる。すぐ湯を餃子の三分の一が浸かるほどに入れ、ふたをする。火加減は強火のまま、水分がなくなり皮がぱりっとするまで焼く。  

料理に添えるサラダは案外、食物繊維が少ない。できるだけ温野菜のほうがよいだろう。野菜のかさが減ってたくさん食べられる。サラダの場合は、海藻類やとうもろこしを加えて食物繊維を補う。  

味噌汁の塩分を気にしている人もいるだろう。減塩ブームが拍車となっている。薄味にして食事にストレスがかかっては意味がない。たくさんの野菜を味噌汁を加えることで、塩分の排出を促進させる。カリウムが多く含まれている食品を一緒にとればよいのである。 

朝はパン食の家庭も多いことだ。朝食になかなか時間を割けないのが現実である。パン食になるとどうしても高脂肪・低繊維になりがちだ。パンに塗るジャムやコーヒーなどの飲み物に入っている砂糖の量も問題である。そのためにも食物繊維の多い食品を食事に加えなければならない。  

加工食品や精製された食品が多くなり、ビタミン・ミネラルの慢性不足となっている。できるだけ精製度の低い食品や調味料にするべきだ。  

主食である米はほとんどの家庭で白米が食べられているだろう。ミネラル不足や繊維不足を解消するため、可能であれば精米度の低い分搗き米、胚芽米、玄米にし、麦や雑穀を加えたい。現在では普通の炊飯器で炊け、食感もさほど白米と変わらない「発芽玄米」が売られている。発芽させていることで、玄米よりも柔らかく栄養素が増えている。白米と混ぜてたくことができるため、気軽に食べられる。白米と発芽玄米を2対1に混合し、麦を少量加えて主食とされることをおすすめする。  

コンビニや外食で食事をすまされる機会も多いだろう。コンビニのお弁当や外食は一般的に塩分と油分が多い。できるだけ吟味して選ぶようにし、ミネラルや食物繊維の多い食品を加えるようにしたい。  

食事について考えていくと、和食のすばらしさを実感されることだろう。和食中心の食生活を行っていけば、不足しがちなミネラルやビタミンが十分にとれ、食事のバランスはある程度保証される。  

最初から栄養剤やサプリメントで補うのではなく。まず食生活の改善をするべきである。 

主食は御飯、できれば精製度の低いものにし、麦などを加える。汁ものは味噌汁すまし汁などを、具だくさんにする。それに漬物を加えれば、基本となる一汁一菜になる。あとはメインのおかずや副菜のことを考えればよい。基本がしっかりとした食事になっていれば、バランスはうまくとれるのだ。  

いくら健康のためだからといって食卓を味気ないものにしてはいけない。食事は多くの人が一日三回とり、おいしいものを食べたい欲求がある。精神的にもおいしく食べられる食生活を築く必要がある。  

品数は多いに越したことはないが、時間の都合もありなかなかそこまで手が回らないものである。惣菜や冷凍食品、缶詰などをうまく利用すれば、手軽にできる。これらを使うのは手抜きではない。うまく使うのが料理上手だ。豆腐や納豆などそのまま食卓に出せるものもある。あまり頼りすぎるのも問題ではあるが、工夫次第で食卓は華やぐものだ。  

また、献立がマンネリ化したとか新しい料理を作りたいとかという場合には、献立をパンフレットの中から選び、その食材を配達してくれるサービスがある。人数分だけの材料なので無駄が出ることがない利点がある。惣菜やデリバリーなど食に関するサービスは豊富である。これを機に色々と調べてみられるとよい。    

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義務教育  

教育改革で論議の中心は、小・中学校の義務教育と97%の進学率を誇る高校の教育についてである。学校内で現在起こっている様々な問題について、学校教育が原因なのか家庭教育なのか考えなければならない。  

無気力や学級崩壊などの問題を引き起こしている子供は、家庭教育に原因があると考えられる。それは誤った躾や食生活によって引き起こされる我慢ができない、自発性がないといった特徴が、子供たちの変化と一致するからだ。適切な家庭教育が行われていないことは明らかである。一方で、実際に教室で起きている問題について、学校・教師側で行う対策も考えなければならない。  

学校教育が原因で引き起こされている問題として挙げられるのは、学力低下がある。前章で提起したように、算数・数学の基礎ができない、生徒の学力が年々低下しているという問題である。やる気がないといった家庭での教育の影響も考えられるが、定期テストや入試の重みなど知識偏重でありながら学力がつかない現在の教育や、子供たちの学習に対する意識の欠乏に原因があるといえる。子供がやる気になる教育、大人になっても知識が定着している教育に移行するべきである。  

ほとんどの子供たちが通っている高校も実質的な義務教育として考え、12年間のスパンで教育を考える。まず、学校で何を教えればよいかという根本的な問題から考えていかなければならない。現行の学校教育で子供たちの弊害となっていることや社会に出て何が必要かなど、議論の余地がたくさんある。  

学校で起こっている問題をただ抱え込むのではなく、家庭や地域でできることはそちらにやらせるようにする。現在の教育は学校の負担が大きい。家庭教育についてはすでに説明したので、地域で行う教育についても考えたい。   

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・教育の内容  

学校の学ぶ場が学習塾やフリースクールなど多様化している。社会の情報化が進み、学校という場で学ぶ必然性が低くなってきた。この学習環境の変化に学校は取り残された状態である。学校の現状を考え、将来性のある教育にしていかなければならない。  

現在の学校教育では知識を教え込むことが重視されていて、自分で考えて学習する教育は大学の卒論とゼミくらいである。総合的な学習の時間が導入されて多少ではあるが新しい教育へと向かってはいるが、大半はまだ知識偏重の教育であることは変わりない。  

入試科目が重視され、ほかの教科は蔑ろになっているおそれがある。これらは自ら体を動かし、自ら考えて行動する教科だ。考える力、「生きる力」が教育機関で軽視されているあらわれではないか。  

新学習指導要領では、総合的な学習の時間の導入とともに、小・中学校では学習内容が3割削減されて教えられる「ゆとり教育」が実施される。基礎学力をしっかりと定着させ、知識の蓄積を確実なものにするための処置である。また余裕があれば教科書を越えた応用分野を教えることができ、柔軟な教育が期待できる。だが先生から一方的に教えられる形態はなくならず、知識を教え込むことに重点が置かれたままである。  

学校以外では、知識を徐々に積み重ねていく学習の機会は少なく、動機や問題が先に来ることが多いものだ。予備知識があろうがなかろうが関係ないので、最初の段階でうまく行かず挫折してしまう場合も多い。それは自立した学習形態が学校教育で養われないからである。勉強したいという気持ちが出たときに自らの手で学習する「くせ」がついていないと、せっかくのやる気が無駄になってしまうのはもったいない話である。  

学校生活で知識を蓄積させる学習のほかに、もっと考える学習を増やすべきである。総合的な学習の時間では、テーマは学校側が決め、それに生徒が従い、自分で学習していく方法をとっている。それだけではなく自分で学習テーマを決めて、自分なりの結論を出していく学習を身に付けさせる機会が必要だ。動機が先にきて、基礎から学んでいく。それを先生が支援して、生徒のものにしていく教育を導入するべきである。  

子供たちが社会に進出するまでに、何を学習させる必要があるか考える。そのためにどのような教育を実施していくのが最適であるか述べていく。  

一つに学力低下で論議を呼んでいる基礎知識の蓄積を、効率よく行う必要がある。視野を広く持たせるためにも、高校程度の知識は重要だと考えられる。  

次に、学校と社会での学習方法の温度差を小さくするために、自分で考え問題を解決して行ける能力を身に付けさせる。  

世間に情報が溢れている今日、情報とのうまい付き合い方を指導する必要がある。全ての情報が正しいものではないので、それを見極める目を学校教育の中で養わなければならない。  

少子化や核家族化、地域関係の希薄などの影響で、現代の子供は学校が唯一の集団生活の場となっている。生活をしていくのに最低限必要な社会性を養うために、学校で他学年との交流、地域で他世代との交流をする機会を増やしていく。  

最後に、進路について十分に考えられるように必要な情報を教える。社会の実態を知り、自分の進みたい道を見つけ、そのために何をしなければならないか考える機会を与える。 

これからの教育は、基礎学力の充実・自立した学習・個性を伸ばす教育の3本柱が相互に助け合っていくべきである。今までの知識偏重型の教育から脱却し、新しいバランスのとれた教育へと根本から変わっていかなければならない。  

私は考える力を徐々につけさせる「くさび型の教育」が必要だと考える。これは一方的な受け身教育から自立した教育へ、知識の蓄積を重視する教育から知識の活用を重視する教育へと、子供たちが小学校から高校まで学年を上がるごとに変化していく教育システムである。  

小学校では基礎学力の充実に力を入れる。高学年から総合的な学習の時間を有効利用して、自立した学習を取り入れる。中学校では自立した学習を身に付けつつ、個性を伸ばす教育を取り入れる。高校では社会と接する機会と進路について考える時間を与える。   

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・基礎学力の充実  

簡単な算数の問題が解けない大学生が存在する。小学校のころの基礎知識がしっかりと身に付いておらず、年をとるごとに忘れている状態である。知識偏重といわれている教育を実施していたにもかかわらずだ。これではいくら勉強させても、今の教育形態では無意味ではないかと疑問を持たざるをえない。  

今の学校教育は知識を詰め込む教育と考えられている。実際に授業の大半が教える時間に割かれているのだが、結果的には知識が身に付いていない。それは学校や家庭でテストの点数だけで学力がはかられているからだ。学校側はテストの結果に重きを置き、入試のために勉強させる。子供たちは良い成績をとるために、学校に入学するために勉強しているのである。学校教育への態度、やる気の低下も重なって、どんどん勉強量が減っている。子供たちはノルマを満たすための勉強しかやらなくなっている。ただその場しのぎの知識を身に付ける勉強の繰り返しをしているだけなのだ。それではしっかりとした学力が築かれるわけはなく、あやふやな知識が時間とともに剥がれていき、学問の基礎も身に付いていない状態になっている。  

基礎学力を充実させるということは、本当の意味での知識偏重の教育をすることである。いくら授業時間を増やし、学習する内容を増やしても意味がない。それ以前の基礎学力が抜け落ちているからだ。従来の教育のままでは実現できないので、知識の定着を重視した学習方法に変換するべきである。  

効率的に記憶させるには、繰り返し学習することである。これは学校の授業だけではなく、家庭での予習・復習を行うことが重要になってくる。また理解度を確かめるためのテストを定期的に実施する。知識は覚えたと思っていても、時間が経つと忘れてしまうものである。1か月までなら思い出せないだけで頭の中に残っており、その間に覚え直せば、前よりも忘れにくくなるようである。これらもことから知識を定着するためには、予習・復習を含めた反復学習と、短いサイクル(1か月以内)のテストを併用することが必要だといえる。  

この理解度テストは別に形式張ったものではなくても、授業の合間に行う小テストでもよい。またテストは点数ではなく、どこを間違えたのかが重要である。勘違い、全く覚えていない、計算ミスなど原因をよく調べて、次につなげるためのテストだということを理解しなければならない。  

学校で教えられる知識は、社会生活で必要不可欠なものばかりではない。だが幅広い視野を持つための下地になるものだといえる。将来子供たちがどのような進路を取っても柔軟に対応できるような蓄積をしているのであって、実生活で使わないからといって勉強しなくてもよいということにはならないのだ。  

小学校で3割、中学校で5割、高校で7割の生徒が授業についていけていないといわれている。学年を上がるごとについていけない生徒が増している点や大学生の学力低下の問題を照らし合わせると、子供たちに基礎学力が十分身に付いていないことが原因であると考えてよい。このことから基礎学力の充実の重要性がわかると思う。   

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・自立した学習  

現在の教育形態は、主に一方的に教えられる受け身の授業である。子供たちにとって勉強に関する情報源が学校だけの時代があった。今では情報が溢れている状態で、先生から生徒へと教えられる以外にも学ぶ機会が増えてきている。また社会に出てからはだれも手取り足取り教えてくれず、自分で知識を身に付けなければならない。何でも先生が教えてくれた教育を受けてきた子供たちが、いざ自分で勉強を始めてもなかなかうまくいかず、挫折してしまう可能性が高い。学校と社会での学習の温度差を縮めるために、自ら学ぶ力を身に付けさせる必要がある。  

新学習指導要領では総合的な学習の時間が導入され、自分で考える授業が行われる。教科の枠にとらわれない従来の授業を越えた内容を生徒たちが学習する。しかし全体としてこのような授業時間は約1割週に2〜3時間とまだ少なく、受け身の授業がほとんどである。今まで一斉授業でやってきた教科書の内容も、自分たちでできない範囲ではない。教師があくまでも支援者という立場を守り、子供一人ひとりが自分の理解度に見合った速度や勉強法で学習させる。  

学校では学ぶ教科は内容も勉強法も限られる。しかし教科の応用分野や社会での学習は筋道がなく手探りで進めなければならない場合が多い。自ら学び、自ら考える力が必要になってくるのだ。大量にある情報の中から有益なものを取り出し、真偽を見極め、自分の力で判断する能力を、社会へ巣立つ前に身に付けさせる。  

自立した学習を子供たちに身に付けさせるには、自分たちで勉強させる機会を作り、先生が支援することが必要である。勉強の支援者は先生だけではなく、生徒たちにもできる。わからない人がわかる人に教えてもらえばすむのである。  

学習の理解の仕方は一人ひとり異なるものだ。一斉授業ではわからない人が出たり、退屈になる人が出たりする。子供たちに合ったスピードや方法で勉強させるには、自立した学習が一番である。   

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・個性を伸ばす教育  

個性を伸ばす教育は大きく分けて二つ考えられる。基礎学力について自分にあった進行具合で学習する教育と、自分の得意分野を極めていく教育である。  

前者は、現行の一斉授業をやめて習熟度別学習を行うことである。今までの授業進行は理解度が中程、もしくはそれより下の生徒を対象にされている。するとそれより下の生徒は授業について行けず、その教科がわからなくなるし、上の生徒は退屈な授業を長々と聴かなければならないはめになる。  

個人の理解度にあった教育を行うためには、習熟度別学習と自主学習が不可欠である。特に自主学習は重要で、自分の学力に見合った勉強を進めていけるため、一斉授業のときよりも理解のスピードは向上する。そのためには生徒たちに自立した学習が身に付いていることが前提である。  

後者は簡単に言うと、興味のあることをやらせる教育である。個性は人から教えられて開花する可能性もあるが、自分で見つけていかなければならない要素が高い分野だと考える。学校側はあくまで支援することしか出来ないのである。  

本来、学校で教育する分野ではないのかもしれない。学校で平等教育をしていても、興味を持って自分で伸びていくものだ。皆さんの周りにも、一つのことをいやに詳しく知っていた人がひとりはいただろう。学校生活とは無関係に知識を自分で身に付けているのだ。 

学校の役割は興味を持つきっかけを与え、能力を伸ばす支援をする環境をつくることである。国語や数学などの基礎教科だけが入口ではなく、職業についての情報も与えていかなければならない。そのためには早いうちからさまざまな体験をさせて、社会の中からの興味を持たせる努力をすることだ。あとは子供の自主性に任せて、自分の血や肉にしていけばよいのである。  

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・総合的な学習  

教育改革の3本柱、基礎学力の充実・自立した学習・個性を伸ばす教育を見てみると、それぞれが無関係ではなく、お互いに影響し合っていることがわかる。この教育理念をどのようにして実現していくか、これから説明する。  

基礎学力の充実については従来の授業形態でも対応できる範囲だとは思うが、自立した学習と個性を伸ばす教育については対応できない。実現するためには、新学習指導要領で導入される総合的な学習の時間を有効に活用することである。  

これから説明する総合的な学習の時間は、新要領とは異なり、もっと汎用性を高くし教育時間を多くとる。そのためには従来の一斉授業を減らすことになる。  

画一的な受け身の教育を必要最小限に削減する。授業内容を吟味して基礎の部分だけをみんなで勉強し、応用の部分は各自でやるようにすることで実現できる。基礎を反復学習することで理解力が増し授業時間が短縮できることは、百ます計算表で有名な兵庫県朝来町立山口小学校の試みでもわかる。一斉授業の質を高くすることで時間自体を減らし、ほかの学習に割り当てることができるのである。  

小学校低学年のころは受け身の授業が主体になるのは仕方ないが、高学年や中学にもなれば自ら勉強する形態を軸にすることは容易だと考える。自分のペースで勉強を進め、わからないことがあれば先生や生徒に聞く。少人数授業にしても味わえない一人ひとりの理解度に合わせたきめ細かい教育をすることができる。  

総合的な学習の時間で実際に行う教育内容は、次の四つに分けられる。  

一つ目は、学校の勉強を自分でやる「自習の時間」である。この教育の目的は、個人の理解度にあった学習を行い、知識を最大限に身に付けさせることである。一斉授業でやらなかった応用分野を一人で勉強させるのだ。反復学習をこの時間にできれば、授業自体もスリム化でき効果的である。予習・復習を習慣化できると、学習の理解度も増す。わからないところがあればすぐに個別に先生から教えてもらえる。生徒同士で教え合うことができるのが理想である。  

二つ目は、自分で学習するテーマを決めて、自分で勉強する「個別学習の時間」である。最初のうちはグループで学習の流れをつかませて、慣れてくれば一人ひとり別々のテーマにする。またみんなで同じテーマにし、個別に学習させる。各が出した結果についてみんなで議論する。そうすると生徒たちがいろいろな考えを持っていることがわかり、一人で調べてわからなかったことが見つけられる効果がある。興味のあることを自分で調べ、みんなに発表できる技術を取得させるのがこの教育の目的である。  

三つ目は、グループで一つのテーマについて考える「集団学習の時間」である。一人では扱いづらい大きなテーマに数人のチームをつくって学習するのである。グループ内で役割を決め、みんなの意見を総合して結論に至る。学校の意義はただ勉強を教えるだけではなく、集団生活から協調性を養うことだ。異なる意見をグループで一つにまとめる力、自分の主張をうまく伝える能力を育てるのが目的だ。  

四つ目は、子供たちに様々な経験をさせる「体験学習の時間」である。今までの教育ではなかった社会とのつながり、自分と人とのつながり、社会と学校教育との関連を考えるのが目的である。社会と接して初めて学問の重要性がわかり、実際に体験することで職業のおもしろさが実感できる。社会と学校との温度差を縮めることができ、自分の進路を考える機会になるだろう。奉仕活動のような社会に出ると体験しにくい経験も積ませるべきである。   

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・地域教育  

地域と子供との関わりが、少子化や都市化の影響で薄れてきている。子供の教育が学校中心に行われて地域の役割がなくなってきている。子供の教育について家庭・学校・地域のそれぞれで得意な分野が存在するので、肥大化した学校教育の役割を分担する必要がある。  

学校運営に地域の人々の意見を取り入れる「学校評議員制度」というのがある。教育ジャーナルの調べで、導入している学校は、小学校で16%、中学校30%、検討中がそれぞれ30%という結果である。  

まだ始まったばかりの制度であるが、地域に開かれた学校を築いていくには有効だといえる。また学校の様子をホームページなどで公開し、あらゆる人々に意見を求めることもできる。より良い学校教育を行うのに、第三者の目は重要なことだろう。  

子供たちと地域の人々が直接交流する機会を得るのに都合のよいのが、総合的な学習の時間である。  

一つの方法として、地域の人々の経験を生かした授業を行うことである。教育ジャーナルの調べで、総合的な学習の時間のために人材バンクを作成してあるかという問いに、作成してあるが小学校で42%、中学校で19%。作成中が37%、45%となっている。 大人の経験を生かした授業というのは、子供たちにとって社会や歴史の生きた知識を深く知るチャンスである。  

もう一つの方法は、子供たちが地域の中に入り色々な体験をすることである。実際に経験することで、現実を知り、社会とのつながりを実感できる。地域の人々に奉仕するだけではなく、奉仕される側に立つ経験をし、子供たちがありがたみを感じる機会にしたい。   

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・教育のアウトライン  

これまで述べてきた教育理念を小学校・中学校・高校でどう分担するか、総合的な学習の時間を含めて考える。  

小学校では、基本的な知識を身に付けさせる教育を主に行う。特に低学年は、九九などのように、いわゆる丸暗記に当たる意味のない文字などの記憶力が優れている時期である。論理的な思考がまだ発達していなく、各教科の基礎知識はただ覚えることが多いので、この時期に教え込むことが重要である。反復学習が有効であるのは、いうまでもない。  

家庭や保育所、幼稚園で身に付いているだろうが、社会性を養うことも大事である。小学校では、先生がいてたくさんの生徒がいる。ここで社会生活で最低限必要なルールを守ることに慣れさせなければならない。  

教科書を用いて行う授業だけではなく、奉仕活動も含めたさまざまな体験をすることで得られる知識もある。子供たちには、小さいころからいろんな経験をする機会を与える。 

高学年ぐらいから、総合的な学習の時間を利用してまず「集団学習の時間」から自立した学習について教育する。「自習の時間」を組み込んで、教科書の内容も少しずつ自分で勉強できる能力をつけさせたい。

中学校では、自立した学習を身に付けさせることに重点をおく。そのためには画一的な授業を少なくし、自分で勉強する時間を増やす必要がある。  

授業の効率化は、授業時間が減り、子供たちの理解度が向上、最低でも変わらないものでなければならない。授業を早く進めても生徒がわからなければ意味がないのである。  

授業の理解度を増すためには、基礎学力を確実に習得させる。漢字や九九などの基礎は理屈ではなく丸暗記に属する分野だ。その基礎が身に付いていないと、その先の熟語や割り算、分数がわかるわけがない。授業がわからなくなるということは、理解するために必要最低限の知識がしっかりと自分のものになっていないからだ。今の一方的な授業では1回わからなくなってしまうと追いつくのが難しく、勉強をやる気がなくなってしまう危険が大きい。  

総合的な学習の時間などで自分の力で勉強し、だんだんと自立した学習が身に付いてくれば、基礎的な科目も授業を行われなくても勉強できるようになるだろう。従来の授業自体がなくなっても勉強が可能になると、総合的な学習のみで学校教育が成立する。極端な話、先生が作成したノートと教科書や参考書を元に、「自習の時間」のみで基礎知識が学習可能となるのだ。  

中学の時点ですべての教科を生徒任せにしてしまうのはまだ早いし、現実的にも難しい。授業を効率化することによって教育時間の短縮や理解度が向上し、自分で考える力が身に付いていく。自分で勉強することによって、自分にあった勉強法がわかってくる。このような利点に注目すれば、基礎学力の部分に生徒が自主的に勉強する割合を増やす教育を早いうちから導入するべきだと考えられるだろう。それを学年を上がるごとに増やしていき、中学校では早いかもしれないが、高校では主力となれるはずだ。  

中学で自立した学習を身に付けさせるもう一つの必要性は、高校受験への対策である。高校入試は、一般のテストとは大きく異なり、通う高校を左右する重要な試験である。その勉強は学校や教師よりも生徒個人の力量が影響し、自分にあった勉強法やコツが身に付いているかいないかで大きな差が出てくる。受験は自分との戦いと考え、学校側は自立した学習を習得させることで、生徒の負担をできるだけ少なくすることが重要である。  

自立した学習の習得と併せて、基礎学力をおろそかにしてはならない。中学校ぐらいから生徒ごとの理解度の差が大きくなってくるので、習熟度別学習を実施する。教育する内容に差をつけるわけである。前に述べたように、短いサイクルでテストを行い、知識の蓄積をしっかりしたものにする。  

自立した学習と基礎学力の充実が、お互いに助け合って生徒たちに適切な教育が与えられることがわかるはずだ。この二つの教育を自分のものにしていくことで、個性を伸ばす教育での第一歩となっていく。そのためにも小学校と同様に、様々な体験を通じて幅広い知識を習得させる必要がある。

「自習の時間」で授業がすむようになれば、「個別学習の時間」や「集団学習の時間」を学校教育の主軸にできる。自分で考えたテーマについて長い期間使って研究するのだ。自分の考えを他人に説明する技術を身に付ける作業を重視して教育する。  

個別学習のもう一つの目的は、長い期間一つの事を続ける教育を行うことである。キレる子供や学級崩壊の例にもみられるように、今の子供たちは我慢をする能力に乏しい。また情報を集め、自分の力で考え、独自の結論を導く過程を学ぶ機会がない。これらの今の教育に足りない分野を育てる意味もある。本格的に導入する時期としては、受験の終わった高校からが妥当であろう。  

高校では個性を伸ばす教育を重視する。「個別学習の時間」で学習したテーマを単位として認めるとおもしろい。3年間で数テーマの研究をする。学校教育と無関係の内容でもよいだろう。そのためには論文の書き方や発表の仕方を学習させておく。自分のやってきたことをまとめる作業、わかりやすく説明する技術などが自然と身に付いていくだろう。 

これは新要領で導入される情報教育の一貫と考えることができる。収集した情報の真偽を見極める目や論理的に物事を考えられる力、情報の受け手と送り手のギャップを実感するのによい教育になると考える。情報教育についての詳しい説明は第4章、第5章を参考にしてもらえれば幸いである。  

特に高校時代には、社会との接点を持つことと、自分の進路について考える時間を作りたい。興味を持っていること、やってみたいことについて調べる。そのために必要であれば、専門学校や大学に進学すればよい。  

次から学校で具体的にどう教育していくか説明していく。   

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・授業の効率化  

総合的な学習の時間を増やすためには、従来の授業時間を減らさなければならない。ここでは教える内容を減らすことなく時間だけを短縮する方法を述べる。  

まずは基礎学力の充実である。授業を円滑に進めるためには、理解に必要な知識、授業で扱う知識を前もって覚えさせるのだ。何を言っているのかわからない授業ほど受けていて苦痛なものはない。小学校3割、中学校5割、高校7割の生徒が授業についていけていないと感じている。長期間忘れない知識をつけ、授業を受けるために最低限必要な知識を記憶させておかなければならないのだ。  

各単元を始める前に、必要な知識を覚えさせる。国語であれば文章に出てくる漢字や言葉の意味、音読、算数(数学)であれば、計算力がある。理屈ではなく、暗記するべき内容である。自習の時間や宿題、授業の合間にやる小テストで繰り返しやる。要点を音読させるのもよい。覚えさせようと圧力をかけるよりも、ただ反復させ忘れにくくするほうが子供の負担ははるかに少ない。ゲーム感覚で楽しく覚えさせるのだ。  

この基礎学力の充実は、授業の理解度を上げ効率化できるだけではなく、学力低下にも効果がある。  

次は板書についてだ。教師が黒板に説明を書き、生徒が書き写す。この作業に多くの時間が割かれている。このことにどれほどの意味があるのだろう。覚えるために書き写すという行為は有効であるが、それは繰り返すことに意義があり一回だけの板書では効果は薄い。  

この時間を短縮するために、板書する内容をあらかじめプリントや副教本にして生徒に配る。教師は説明に必要な部分を板書し、授業を進める。書き写す時間が丸々節約できるのである。  

生徒はただ板書する手間がなくなり、先生の説明に集中できる。基礎知識が身に付いていれば、話もすんなりと入っていくだろう。説明が理解できれば、どこが重要だとか不明な点がわかる度合いが高くなる。授業を聞き必要に応じてノートやプリントに書き込んでいけばよい。  

理解を深めるためには、自分にわかりやすいノートを作成することだ。でもそれを授業中に行うのは至難の業だ。教師の説明を聞き、板書を写し、不明な点を質問し、わかりやすくノートにまとめる。職人の域に達する作業だ。授業中は説明を聞くのに専念する。わからないところは質問する。ノートには先生が説明する際の板書や気になった点を書く。それを元に、あとで教科書や副教本と照らし合わせて、ノートを作る。この段階で不明な点が出れば、ほかの生徒や先生に聞けばよいのである。本人が理解していないと、ノートは作れない。  

これらのことから授業を理解して聞くには、予習・復習が重要である。予習では授業でやる部分の教科書や副教本等に目を通し、必要な知識を確認する。復習では要点を再確認し、ノートをまとめる。この作業を「自習の時間」や家庭で行う。  

最後は授業内容の厳選だ。自立した学習が身に付いてくれば、一斉授業でやっていた内容も自分たちで勉強できるようになる。一斉授業で扱う内容を基礎やつまずきやすい部分だけに厳選し、あとは子供たちでやらせるのである。最初は教師が十分に指導しながら、自ら学ぶ力をつけさせていく。   

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・自習の時間  

現行の教育では一方的な講義をし、宿題を出し、勉強しなさいと指導する。しかし肝心の勉強の仕方を教えていないのである。学校教育で学習する技術をつけさせる必要がある。 

自習の時間は、授業の予習・復習と、今まで一斉授業でやっていた内容を自分たちでするのに使う。前者のほうは授業の効率化の項で述べた内容を行う。予習・復習の方法を教師の指導のもとで学ぶ。本来は家に帰ってからするものだが、やり方がわからなければうまくできないのだ。宿題として提示する方法もあるが、自分にあった勉強法を指導するまでには至らない。  

自ら学習する力がつけば、一斉授業でやっていた内容も生徒だけでできるようになる。予習・復習が徹底できれば、従来の授業の部分はかなりコンパクトになる。授業という形式をとらなくても生徒たち独自で学ぶことができるのだ。  

この時間で予習・復習の仕方を学び、授業でやっていた内容を生徒側でできるようになると、自習の時間だけで基礎知識が学習可能になる。  

板書する内容が書かれた副教本等と教科書を参考にしながら、自分たちで勉強する。わからない箇所があれば先生やわかる生徒に個別に聞く。  

自習というと、教師が教室にいない状態で生徒が静かに学ぶ印象があるが、この場合は教師は生徒個別に指導していくのである。助言の必要のない生徒は自分でどんどん勉強すればよい。一人ではなかなか進まない生徒には教師がマンツーマンで丁寧に指導する。教師の役割は、わかる生徒が代行できる。一つの教室に多くの先生がいるのと実質的に一緒。になるので、スムースに自習が進むのだ。   

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・個別・集団学習の時間  

総合的な学習の時間の導入で、自ら学び自ら考える力を養う教育が始まる。それに近いのがこの個別・集団学習の時間だ。  

個別学習の時間はテーマを決めて、自分の力で情報を集め、考えを人に発表する教育を行なう。集団学習の時間はそれをグループでやるのだ。  

学習するテーマは総合的な学習と同様に教科に関連した内容を扱う。授業でやった内容が実際どう使われているのか、深く掘り下げることで新しい事実が見つかるといった効果がある。授業で得た知識を自ら使うことでよって再確認する。断片的な知識が自ら調べることによって一つの体系的な知識になる。自ら学ぶことにより知識が定着し、授業自体の理解も深まるのである。  

この授業に慣れ、自立した学習が身に付いてくれば、学校教育とは無関係でもよい。世間で注目されている事、自分が興味を持っている事、自分で勉強してみたいと思う事をテーマにするのだ。教科と無関係だと思っていても、つながっているものなのだ。政治や経済問題は社会であるし、ITのような科学技術は理科・技術だ。教科の延長が社会の中に含まれていることがわかるだけで、ただ勉強していた内容も身近に感じる。  

集団学習の場合、個別学習と違って数人のグループで勉強するため、役割分担や議論ができる。三人寄れば文殊の知恵というように、プラスアルファの力が出る。導入段階でやり方を学ばせる場合や大きなテーマを扱う場合に適している。  

この時間では自ら学び自ら考える力だけではなく、情報に関する知識を身に付く。メディアの特徴、論理的な思考、情報の送り手と受け手のギャップなどだ。詳しい説明は第4章第5章を参考にしてほしい。生活にメディアが密着しているため、小さいころから適切な目、情報に惑わされずうまく使いこなす力を養う必要がある。   

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・体験学習の時間  

この時間は教科に関係なく、子供たちに様々な体験をさせる。例を挙げると、野外でキャンプや川遊びなどをする自然体験、会社見学や職業体験をする社会体験、農作業や高齢者介護などの人道的作業をする奉仕体験がある。  

多くの体験を積ませることで教科の勉強で生えられない知識が身に付く。自然の雄大さや怖さ、社会が実際に動いている様、人と人とのつながり、他世代との交流などの生の情報にふれる機会は子供たちにとってあまりない。これを学校教育で行うわけだ。  

この時間は学校の枠から出て、社会や地域の中に入っていかなければならない。両者の協力が不可欠になってくる。子供たちに場所を提供してもらうだけでは長続きしないおそれがある。  

それを解決する案として地域通貨、エコマネーの導入である。地域側が場所や教育指導をすればエコマネーがもらえ、子供たちが地域のために仕事をすればもらえるようにするのである。サービスのやり取りを通貨と一緒に流通させるわけだ。  

授業の枠を超えてこのエコマネーが使えるようにすれば様々な効果がある。地域通貨が媒体になることで子供たちが自ら社会のため地域のために奉仕するようになるわけだ。子供たちも社会が身近に感じることだろう。   

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・学年をまたぐ教育  

公立の学校教育は学習指導要領により何学年で何をやるか事細かく決まっている。新要領からはこれが最低基準となり、上学年や応用分野を教えてもよいことになった。だが授業はどんどんと先に進み、一つの単元が教えられる期間はわずかだ。補習という形で後戻りすることはあるが、授業の本筋とは扱っていない。  

七五三と言われる授業の理解度に表れるように、理解が十分ではないまま授業が先に進んでしまうため基礎学力の未定着につながっている。下の学年の内容を学ぶ機会が皆無だからだ。一斉授業で行うのも無理がある。  

そこで自習の時間等を利用して、主に昔の内容を勉強する機会を作るのだ。いくら指導要領が3割削減されたとしても全ての生徒に最低基準の内容を身に付けさせるのは無理である。学年の枠を超えた教育が必要なのだ。  

教育の内容だけではなく、子供たちも学年を越えた交流を持たせる意味もある。少子化で一人っ子の家庭も多い。すると上の兄弟の友達と遊ぶような機会もなく他学年との付き合いが希薄になってきている。社会では多くの世代が入り混じっている。同学年だけとなかよくするのではなく、年の違う子供と交流する時間をとる。様々な経験を一緒にしたり、上の学年の子供が下に教えたりするのである。   

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・学校・教師の役割  

これから新要領の導入やこの章で提言している改造論による教育によって、学校側はどう変わっていくべきか述べる。  

まず現状の学校について考えてみる。教育ジャーナル2001 4月号の校長へのアンケートから抜粋していく。  

2001年の教育課程を遂行するにあたって、現在の教員に満足していますか、という問いに対して中学校13%、小学校15%が「はい」と答えており、一番の不満は、教員の人数が小学校53%、中学校50%。教員の資質が32%、34%であった。  

担任配置に満足していますか、という問いに、小学校73%、中学校88%が「いいえ」と答えている。また指導力のない教員、資質のない教育への対応が注目されています。「免職させられる」ことについて賛成ですか、という問いに、中学校66%、小学校が73%が「はい」。指導力がない、資質がないといわれる教員を、管理職としてどのようにリードしていくか、という問いに、再教育を受けさせるという意見が最も多かった。  

現在の学校では、教員不足が深刻のようだ。免職に過半数が賛成していても、資質のない教員に対する対応の上位に含まれていない。担任配置の満足度にその結果は表れていて、教員に対する台所事情は厳しい。  

教師がペアを組んで指導するT・T(チーム・ティーチング)を導入しているか、という問いに、中学校77%、小学校78%が「はい」と答え、またT・Tに希望通りの教員が配置されたと答えたのは、小学校63%、中学校51%であった。T・Tの問題点について、各教員の意思の疎通が中学校57%、小学校51%。教科・指導内容の選定が17%、14%。各教員の指導力の差が15%、13%であった。  

やはり教師不足や時間不足がひびいている。一刻も早く教師の数を増やす必要があるようだ。  

この教師の問題は新要領が導入されると、さらに深刻になる。総合的な学習の時間の準備や指導に力を入れながら、授業内容の3割削減によって習熟度別学習が不可欠になってくる。また中学では選択教科が導入されるため、ますます仕事が増えるわけだ。

「選択教科」の内容は何ですかという問いに、学校で決めた内容を生徒が選択75%、生徒の希望23%。「選択教科」の内容で問題点は構成上希望に答えられない67%、環境が未整備28%であった。  

また民間からの教員登用について、大いに登用すべきが中学校43%、小学校41%。教員なみの指導力があればがともに34%。教育現場が混乱が19%、20%であった。 

新要領の変化に対応するためには、民間からの教員や非常勤教員の登用、人材バンクの利用を含めた教師・指導者の増加が不可欠である。また、総合的な学習や選択教科の導入により、ただ教えればよいだけではなく、様々に変化する生徒の要求に対処していく教師の資質や意識も重要になってくる。  

改造論の教育が実施されると、教師は指導者というよりも子供たち一人ひとりに目を配り、個々にあった助力をする支援者という意味合いが濃くなる。教師の知らない知識について指導せざるをえない事態も想定されるため、柔軟性を持った教師の資質の育成が重要なのだ。  

教師をめざす学生の養成教育も変化が求められる。学級崩壊に対応し、教科書の指導だけではなく、必要とされる新しい知識を日々吸収していかなければならない。  

新米教師に十分な能力を身に付けされるため、大学卒業後、または最終学年で1年間実際の学校で指導する「実習講習」を行うべきだ。医者のインターンと同様の感覚で、数箇所の学校で様々な実体験を得ることで、教師としての資質を開花させる期間を十分にとらせたほうがよい。実際に経験させて、自分に向いていないとわかれば別の道を歩めばよいし、1年間で足りないのであれば、期間を延長して子供たちを支援するのにふさわしい教師になれるまで根気よく教育できる制度を導入するべきだ。  

学校が抱える問題の一つに学級崩壊があるが、教師がどのような対処をしていけばよいのだろうか。  

学級崩壊やいじめの防止を目的に、小学校低学年を中心に少人数学級制度を独自に導入している自治体が増加している。40人学級ではなかなか一人ひとりの生徒まで目が届きにくいという意見も多く、複数人学級との併用することで、教師の負担が軽減される。  

学校は一種の社会であるので、集団生活をする上でのルールを守らせる訓練を、小学校の低学年で徹底する必要がある。この時期にしっかりとした躾をしておかないと、学力低下と同様にずるずると規律が身に付かないまま成長してしまうおそれがある。問題のある生徒がクラスにいて授業の進行を妨げる場合には、先ほどの少人数・複数人学級の導入や、親との対話をし、家庭での教育の見直しを指導するといった処置をしていくべきである。 

新要領では学校・教師側の裁量の範囲が広くなる。指導要領の内容が最低基準になり、総合的な学習の時間が始まる。力量の差がそのまま教育に反映することになる。  

各学校が自分のところではどのような教育を行っているか情報公開し、ほかの学校の参考になるようにするべきだ。今回の教育改革で大きな方向転換を強いられ、手探りの状態で進めていかなければならない部分もある。教師は全国の学校でよい結果が得られた方法を取り入れたり、一つの学校内だけではなく他校と連携してよりよい教育方法を模索する努力が必要だ。奥の教師が集まることにより、不安が軽減しよいアイデアが出やすくなる。物理的な距離の差はいまでは通信技術の進歩でなくなったといってよい。一人で問題を抱え込まないで、多くの人と一緒に解決していくのだ。   

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・起こりうる問題  

これまで改造論で子供たちや学校がどのように変わっていくか述べてきた。現行の教育に対する問題を解消する策を説明してきたが、これによって必ずしも良い結果ばかりが現れるはずもなく、マイナス面にも目を向けなければならない。  

まず子供たちに起こりうる問題について考える。知識の蓄積を重視した教育から知識の活用を重視した教育へと移行させた場合、生徒やそれを評価する教師にとってつかみどころのない学習になる可能性がある。自らが進んで勉強していくのだから生徒の学習に対する達成感は満たされる。しかし学力向上したという目に見える結果が現れにくいため、実感に乏しく、継続して学習していけるだけの気力が喪失してしまう危険がある。  

基礎学力の充実と自立した学習はお互いに助け合いながら教育が進んでいくが、二兎を追うものは一兎をも得ず、となりかねない。特に新要領のままでは、学習内容3割削減を授業総時間の1割程度の総合的な学習であるので、知識が十分につかず考える力もさほど身に付かないといった中途半端な結果となってしまいかねない。  

世間は見た目のわかりにくい考える力よりも、試験で簡単にわかる学力にどうしても目がいってしまう。数字としてはっきりと結果が出るからだ。考える力を養う教育は長い期間見守っていかなければ評価されにくい性質があるので、知識の蓄積を軸として考える力の育成を併用しながらやったほうが、長期にわたって望む教育方針が維持できるだろう。 

また小学校から高校までの12年間でくさび型の教育を実施するとなると、小学校と中学校、中学校と高校の間で連携をしなければ、学校間で温度差が発生し生徒が混乱してしまうおそれがある。学校独自のカリキュラムになると教育の格差が生まれる。公教育でどれほど学校格差が認められるのかが心配だ。  

自立した学習を実施すると、考える力で能力の差が出てくる。自主学習が年々増えると考える力のない生徒が授業について行けず、落ちこぼれてしまう。具体的にどうフォローしていくか難しい。  

次に教師への問題について考える。まず仕事量の増加である。従来の授業、総合的な学習といった様々な仕事をして行かなければならない。準備などに追われ、肉体的・精神的な負担が増える。教師の増員だけでは解決しづらい状態に陥っている。自分で何もかもやる教師主導から生徒主導に変え、教師の仕事を少しでも減らす努力をする。そのための方法や技術の指導を教師にしなければならない。  

教師たちにとってこの教育改革は大きな変化である。社会の流れによっても将来、学校教育のあり方が変わっていく可能性もある。そのために必要な能力の変化に教師自身がうまく対応していけるか疑問である。  

次に学校について考える。総合的な学習で、生徒が調べる作業を行うための設備不足が挙げられる。本で調べるにしても、学校の図書館にある本の量はとても充実しているとはいえないし、公共の図書館等を利用するのに、学校との距離が問題である。学校から遠い場所にあると、時間が無駄になり頻繁に通うことができない。距離の格差を縮めてくれるインターネットの利用にしても、有益なサイトを教師や生徒がどう見極めていくか難しい。学校によって設備の格差が現れると、それを穴埋めするための生徒への負担が発生し、地域間で平等な教育が維持できなくなる可能性がある。  

最後に、家庭について考える。一番の問題は子供の教育、躾にどう関与していくかである。適切な躾が行われているか外から見えにくく、家庭の中が聖域と化している。間違っているからといって、実際に親へ躾の教育を強制するわけにもいかないだろう。  

幼稚園・保育所や小学校との間で家庭への接点を多くしていくしかない。問題を起こしている子供の親と対話することで、教育や生活の改善をさせていくしかないのである。  

子供、教師、学校、家庭に影響してくる改造論をいかに問題点を少なくしていくかが課題だといえる。努力や工夫で補える点もあるが、根本を解決するには至らないようだ。    

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大学教育  

これまで義務教育である小学校・中学校教育と、高校教育について述べてきた。高校教育と義務教育を一緒に議論してきたのは、97%を越える進学率だけではなく、教育形態が似通っているためである。大学となると話は異なり、5割を越える進学率であるが、教育自体が違うため別に議論しなくではならない。  

まず大学教育で問題として挙げられるのは入学の難しさだ。入学者数が減ってきているとはいえ、やはり高いハードルである。また大学の選び方も問題で、大学名や自分の偏差値で大学を決めていて中身で選んでいない学生がいるのも事実だ。  

何の目的のないまま、大学に入学してくる人々も多いようだ。大学を自分の進路探しの場や遊び場として考えている人がいる。大学のあり方を改めて考え直す必要がある。   

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・大学入試について  

推薦入試やAO(アドミッション・オフィス)入試の新しい選抜方法が増えてきて、学力試験一辺倒ではなくなってきている。AO入試とは、書類選考、面接、論文など学力にとらわれない選抜方法で、大学が専門機関を設立して行われる試験である。  

センター試験については、国立大学で2004年から試験科目を5教科7科目にする流れがある。大学生の学力低下が問題となってきたためだ。  

大学入試は大学で学びたい人が入れるように、学力試験だけに頼らない方法をとるべきである。今までやってきたことをレポートや論文のように形にしたものを選抜の際の指標にしてもよいだろう。学校生活で何をやってきたか、自分の個性は何かという部分をアピールできる入試になってほしい。  

学力試験を行うのであれば、大学で最低限必要な知識が身に付いているか、調べるのに使えばよい。大学に入って改めて補習を行うといった無駄な労力をしなくてすむ。  

いっそのこと、大学入試を廃止して入りたい人は全員入学できるようにすればよい。少子化の影響で入学者数が減ってきている。大学を運営していくために取り入れてはどうだろうか。放送大学などの通信制の大学では全入制度を取っている。高等教育の間口を広くするためには効果的である。   

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・大学について  

あくまでも大学は勉強を教えてくれるところではなく、学びやすい環境を与えてくれるだけだと考えてほしい。一方的な講義を受けているだけでは不十分である。  

目的もなく入学してきた学生は別にして、大学生は学科について学びたくて入ってきているはずである。学びたい人たちが集まっていて、ただ講義を受けているだけではさみしいものである。自分たちでネットワークを作り、自主ゼミを開くなどして、学問を極めてほしい。  

学科のカリキュラムにとらわれないで、独自の学習計画を立てるべきだ。講義でやった勉強よりも自分で考えて勉強したことのほうがずっと役立つ知識になる。  

大学の種類も夜間、通信制、放送大学といろいろある。自分の学習プランにあわせた大学選びをするべきだ。  

習熟度別の少人数学習へ移行しようとしているのに、大学では大人数での一方的な授業が大半である。学生の数が多いため、しょうがない部分もあるが、これでは時代に取り残されるのは目に見えている。  

大学の教育を変えるには少人数のゼミ形式か、大人数でするにしても一方的な情報伝達だけをするのではなく、学生の質問を受ける時間を多くとる講義にしなければならない。 

講義の水準は、学生の出来が悪くても一定のレベルを保つ必要がある。知識不足が原因の場合は学生が勉強していないからで、そのために大学側が補習をすると言った行為は愚かである。必要な知識は、自分で身に付けさせなければならないのだ。  

現在の大学生は若者が中心である。進学率が上昇しても少子化の影響で学生数が減ることは避けられない。そこでこれからの大学教育は、もっと多様化、大衆化してもよいのではないか。大人になってからの再教育、生涯教育の場として大学を利用し、幅広い年齢や教育目的を受け入れられるようなシステムに再構築するべきだ。   

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・大学・大学院教育  

まず、今まで4年次から行われている研究室への配属を3年次に引き上げる。それまでの2年間で教養や専門科目の基礎教育をする。研究室配属までに方向性をある程度決めさせ、これから自分が何を専攻するのか考える期間にするのだ。  

勉強しているうちにほかの学部や学科が自分にふさわしいと思えば、移行できるような柔軟な教育制度にする。他大学と連携し、単位の取得や研究室配属までできるようになれば、特定の大学に在籍するというよりもその地域、もっと大きく全大学から学んでいる感覚になる。いろんな大学で講義を聴き、外からではわからなかった研究室の情報を知る。このような環境にあってこそ学生が真剣に進路を考えるようになるのではないだろうか。 

配属までは最短2年であるが、必要であれば延ばせるようにしてもよい。しっかりと専攻を決めることも重要である。研究室では、前にも述べたようにゼミ形式の講義が主流になり、研究テーマに直結した学習をするため、知識が身に付きやすい教育が実施できる。2年間研究室でみっちり勉強すれば、現在の修士に匹敵する能力を得ることも可能だ。  

3年次から研究室配属になると、最短で3年で大卒、4年で修士課程終了させることも容易である。現在の大学教育の内容であれば、優秀な学生でなくても努力する学生でも可能になる。もちろん、長く大学教育を受けたい人は何年でも勉強できるようにするのはいうまでもない。各自の目的によって教育内容や期間を決められるのが理想である。    

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学校に依存しない教育  

今まで、学校教育をどのようにして変えていけばよいか考えてきた。こうしてみると現在の教育は、欠点ばかりといえる。  

教育とは何か、という根本的な問題から考えてきて子供たちが学ぶ場というのが、学校だけではないことがわかっただろう。たしかに同学年の子供たちが集まり、教育のための設備・場所が整っていて、教師という指導者がいるという学校は、教育する場という点では条件が十分揃っている。ただ教育の方法が誤っていただけなのである。  

これまで現行の学校制度を生かした教育について述べてきた。子供たちを最大限引き出す教育だと考えている。別に学校という場ではなくても、その教育が実現できることがわかるだろう。全国に存在するフリースクールでも同じことだ。学ぶ場所と指導者(支援者)と子供たちが集まれば、どこでも学びの場となるのである。  

学校に依存しない教育といっても学校に通わないということではない。学校の教育だけを何も言わずに従うなということだ。  

長時間学校という場に拘束される。子供の生活は学校中心に動いていることは確かだ。だがすべてを学校に丸投げしてはいけない。よい意味で学校との距離をとるのだ。子供をよりよい大人に成長させるために何が必要か、その中で学校が果たす役割が何か考える。学校は万能ではない。肉体的依存はうけるが、精神的な依存はするべきではないのだ。  

学校は学力をつけ、集団生活をする場である。子供にとって前者の役割が薄いと考えるのであれば、学習塾や自主学習によって補う。後者の場合は、学校外でボーイスカウトや地域のような場で補う。今の学校では不十分の場合、学校をかえるか、やめてほかの場、フリースクールやチャータースクール(コミュニティ・スクール)のような場に通わせる勇気も必要になってくる。  

住んでいる周りに適当な場がないときには、自分たちで用意するしかない。集団生活をするため、仲間が集まらなければならない。非常に難しい行動なので、新しく場を設ける労力を既存の教育施設で行う場合とのメリット・デメリットをしっかりと考えるべきだ。 

新しい学びの場でどのように教育していくか説明する。  

まず教育の支援者についてである。子供たちに学校の勉強や、自立させるための手助けをする人のことだ。親が適任であるが、一日中目を配らせることは生活もあり現実問題として無理だ。そこで教育に関心があるボランティアや定年後のお年寄りに手伝ってもらう手もある。地域を密着し、他世代と接することは、どちらにとってもプラスになる。  

理想をいえば、子供が自分たちで学んで行けるシステムを作ることである。幅広い年齢の子がそろっていれば、年少の子供の世話を年長がするといった対応が十分可能である。 

勉強については、早くから「自立した学習」を身に付けさせる必要がある。もちろん、社会的にも自立していかなければならない。自分のことは自分でする癖をつけていくことが大事である。  

自習の時間の箇所で説明したように、わかる人がわからない人に教えるようにすれば、教育は実現できる。学校の先生と生徒の関係と同じように、教える人と教えられる人を子供たち同志でやるのである。教えるのは得意な人がやればよく、必ずしもすべてを同じ人がやる必要がない。これが一番学校とは異なる点で、先生と生徒の役割をこの都度交代することによって、みんなが成長していくのである。  

子供だけでも教育自体はできるが、安全上の問題があるので、大人の管理下にあるのが絶対条件である。  

学校とは、勉強だけをする場ではなく、集団行動を身に付ける場でもある。一人でも勉強はできるが、集団行動はできない。たくさんの子供が集まるということは、社会に出るまでの準備段階の教育として、最重要課題といっても過言ではないのだ。  

最後にある程度の「生徒」が集まれる場所を確保する必要がある。一番手っ取り早いのが、家である。ほかにも図書館のような公共施設、適当ではないがファミレスや喫茶店などもある。学習する内容に応じて最適な場所を選んでいけばよいだろう。子供たちに自主性や協調性があれば、学校ではなくても十分に学習可能なのだ。    

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さいごに  

これまで教育について述べてきた。家庭での教育は、これから教育を受ける子供にとって重要なことがわかっただろう。子供自身の自発性を尊重することで、自立した教育ができるのだ。  

小学校の低学年までは難しいとしても、高学年、中学生ともなれば、自分で勉強できる力は備わってくるのだ。今の学校教育では一方的な授業で、先生の言うことを聞いているだけだ。これでは自立した教育が身に付くわけがない。大学にいってもまだ続き、ロボットを製造しているようだ。  

学校というのは一方的に知識を詰め込む場所ではない。生徒の学習を手助けする場であることがわかっていただけると思う。  

大学についてあまり説明しなかったのは、重要性があまり感じられないからだ。勉強は自分一人でも十分にできる。ただ環境がそろっているだけで、あとは本人のやる気次第である。入りたい人だけ入ればよい。  

大学は教育をするだけではなく、研究機関としても機能している。大学の利点は、同年代の人が集まっていて同じ学問に興味があり、学習するための環境が整っており、学生が研究に実際に触れることができることである。  

今でも偏差値の高い大学に入ることがよしとされている。高校もどれだけ偏差値の高い大学に合格させるか躍起になり、有名大学の入学者数がステータス化している。この流れは学習塾、中学校や小学校にまできている。偏差値は大学の優秀さを示すものではなく人気ランキングで、高いからといって教育自体がすぐれている保証はない。どこの大学を出たかというよりも、何を学び、体験してきたかが重要なはずだ。これでは本末転倒である。  

この問題は大学を卒業させにくくして解決するものではない。学生の性根をいれかえなければ駄目である。大学に入ってからでは遅いので、親や子供に小学校のうちから「学歴」ではなく「実力」を付けさせる努力をさせたいものだ。

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